About Kaja & Jammin


◆KAJA@上浦容充(Kamiura Yoshimitsu)

◆Birthday: 4月25日 (牡牛座)

◆Blood type: AB

◆Residence: osaka

◆Part: vocal&guitar


◆Hobby: マンウォッチング


◆Facebook: https://ja-jp.facebook.com/KajaandJammin/


KAJA History


1978年
バンド「HIGH-WAY」を結成
1979年
日清食品提供「HAPPY FORK CONTEST」にて全国大会グランプリ受賞
1980年
メジャーデビュー「ギラリ熱愛」シングルリリース  (日清食品「メンコク」TV-CMソング)
同年
FM大阪新人賞受賞
1981年
ファーストアルバム「AGE」、テイチクからリリース
同年
セカンドシングル「炎の夜」、テイチクからリリース
1982年
「HIGH-WAY」解散
1984年
「Kaja&Jammin’」結成
同年
TVドラマ「ハングマン4」主題歌の、  「ありがたや節」をCBS-SONYからリリース
1985年
TV番組「本気ナイトパフォーマンス」テーマソングの、  シングル「BURNNING」をCBS-SONYからリリース
同年
日本初のレゲエ大祭「レゲエサンスプラッシュ」にて、  日本代表レゲエバンドとして出演
同年
ライブ活動を全国的に始動
1990年
アルバム「EARTH」をリリース
同年
大阪「花の博覧会」にて、ベリーズ国、友好親善コンサートに出演
1991年
ボブ・マーレイを偲ぶ国際イベント「Bob Marey Calling」に、 関西代表のレゲエバンドとして出演
1992年
ミニ・アルバム「Jammin’ in Concreat」をインディーズからリリース
同年
Kaja、ソロ活動を全国的に本格始動
1995年
アルバム「EARTH」を日本クラウンからメジャーリリース
同年
ミニ・アルバム「WET&COOL」を、  東芝EMI TMファクトリーからリリース
1996年
初のソロシングル「Dance We Dance」を、  日本クラウンからメジャーリリース
同年
朝日放送・テレビ朝日「らくごのご」テーマソング
1997年
ニュージランド「クライスト チャーチ」にて、  JAPANフェスティバルに出演
1998年
初のソロアルバム「PRESENT」を日本クラウンからリリース
2001年
スイスのバーゼル・チューリッヒ等、3カ所でライブツアー
2002年
中国の上海において、年間2シーズンのライブ決定
同年
アルバム「KAJA&JAMMIN [LIVE]」 「VOICE OF URBAN JAPAN [KOE] ONE」 「VOICE OF URBAN JAPAN [KOE] TWO」を3枚同時リリース
同年
阪本順治監督新作「ぼくんち」(2003年1月公開作品)に、  挿入歌として4曲の使用が決定
2012年
福岡県の音楽フェス「20th Sunset Live 2012 -Love&Unity-」出演
2013年~
関西のライブハウスを中心に精力的にライブを開催
2019年
FM OH!851にて「Kaja FM」開始
2月22日には35周年を記念した完全ワンマンライブ
「Kaja & Jammin' 35th Anniversary Live『Rise Again』」を開催



大阪で生まれる。
Kajaが実質のデビューとなったのは1980年。
この年に発表された日清食品のTVコマーシャルソング「ギラリ熱愛」は、 商品のカップラーメンよりも「好きさ 好きさ ベイビー♪」のフレーズのほうが、人々の日常に浸透した感があった。
ラジオのリクエストは殺到し、街中にその軽快かつラテン的なリズムは響き渡った。 テレビでもその姿を頻繁に見受けられるようになり、翌年、ファーストアルバム「AGE」とセカンドシングル「炎の夜」を立て続けに発表した。
当時のテレビ制作会社で現場スタッフだった男性はこう語る。
「僕らの世代でKaja、といえば誰もが知っていたし、彼らの出現で大阪イコール熱い、ラテン的といったイメージが強化されていったんです」と、 その男性は今でもKajaのサイン入りのレコードを大事に保管し続けている。
その後、プロダクション側の意向と方向性が食い違いだすなどの理由で、バンドHIGH-WAYは解散し、 1984年、新たにKaja&Jammin'を結成。バブル時代創造期に媚びることなくKajaの独自性はメジャーダムで開花していった。
TVドラマ「ハングマン4」の主題歌、また翌年にはTV番組「本気ナイトパフォーマンス」のテーマソングなど次々にリリース。 中でも日本初上陸のビッグイベント「レゲエサンスプラッシュ」に出演したことは日本のレゲエ界に大きな影響をもたらしたと言い伝えられる。
当初の日本人にとってはレゲエはまだ夢の舶来音楽だったのに対し、いち早くバンドとして完成を見せたことがひとつ。 そして単にジャマイカを真似るのではなく、60年代ブリティッシュロックに見られるブルージーな音質やリズム感、 それに日本人的なドラマラスなメロディラインと、歌詞を日本語に徹したことで多くの海外ミュージシャンたちを震撼させたのである。
Kajaの演奏が始まると同時に舞台袖に駆けつけ「こんなレゲエは聞いたことがない。これこそJapanese Reggaeだ」 と乱舞したのがレゲエ界のプリンスこと、マキシープリーストであることは一部の関係者だけが知る事実。
以降、このイベントは多様化し、毎年恒例になるほど日本をレゲエ色に染めたことは言うまでもない。 だが問題はKajaがレゲエフリークではなかったことだ。
彼の中でレゲエは、人間の心奥底に潜む「Soul」の表現方法のひとつでしかない。 80年代中頃から自身の周波数をより直接的に伝えるために、ソロ活動を軸に本格的に全国へと発信していくことになる。

WRITER : Kenji Kawamura


Kajaがわずか20席ほどの狭小なバーや手作りの仮設会場にまでギターを持って出かけるのには理由がある。 ひとつは彼の驕りのない人柄だ。華々しくデビューを飾ったのにも関わらず、最も重要視するものは音楽を通して分かち合えるか、 といったスピリチュアルな世界が基本にあることだ。かといって麻薬や酒に溺れていくような破滅的なネガティヴラインではない。
Kajaはいつもポジティヴライン、つまり人間としての喜怒哀楽を許していくことにある。それが職種を問わず、 より一般社会に近いところで波紋を呼び続けている理由である。
多い時期、年間300本以上のライヴをこなし、現在でも200本以上の数。 同年代のミュージシャンたちは商業ベースに乗っていく中、彼はまたもや独自の活動に力を注ぐ。
数百人も相手にするホールよりも100名以内の飲食店などでライヴに専念するもうひとつの理由は、より人々の心に響き渡るための臨場感にある。 コンピュータを駆使し継ぎ接ぎで出来上がるファーストフードのような音楽ではなく、100%手作りの味をそのままダイレクトに伝えることにある。
狭小な場所では客の1メートル手前でギターさばきと声紋を焼き付けることになる。 弦とネックの間で起こる微音も、靴で床をリズム打つタップ音もすべてだ。昨今の化学調味料で育った世代にはあまりに斬新で衝撃的な体験である。
「踊らなきゃ、格好つけなきゃって、そんな強迫観念が起こらない。
 Kajaの歌を聴いていると普段の自分が甦ってくる」
と多くの若者たちが慣れない安堵感の虜になっている。その証拠にKajaのライヴはひとつの場所で必ず定期的に開催されることになる。 ひと月に一度、またはふた月に一度のペースが最も多い。
作り上げられたデジタルサウンドよりも、一期一会とも言うべく、一生に二度とない出会いのアナログサウンド。 これほど観客の目前で、等身大のありのままの姿を見せるアーティストが日本にいったい何人いるだろうか?
Kajaのソロライヴは1時間のステージを2本というスタイルが殆どだ。 曲目はオリジナルをはじめボヴ・マーレイ、ドアーズなどのカヴァーも定番。同じ曲や構成を何度体験しても感じ方は必ず違う。 音楽は料理のような生き物であることを彼は教えてくれる。
そして、時代や利権に左右されることなく、20年近くもこれをやり続けているところが、 真のプロフェッショナルを感じさせる所以ではなかろうか。

WRITER : Kenji Kawamura


ソロ、バンド共に全国展開のライヴを見せる中、Kajaは新たなる意味をこめて一枚のアルバムをレコーディングした。「EARTH」。 ひとつの地球であり、すべての生命体が宿る我々の母である。 かつてのRoots Japanese Reggaeのイメージを逸脱したその様相に、周囲は戸惑いを隠せなかった。
ある音楽ライターはこう語る。
「若いレゲエフリークから持て囃されたReggae Kajaの転機を
 意味している。これはすべての人間が心に秘めた母性の歌だ」
哀愁のメロディが延々続き、Kajaの掠れた声が神に問い掛けるように鳴り響く。 やがてクライマックスへ向かい、ギターと歌は魂の叫びへと変わり、最後は燃え尽きるように消えていく、 といった実に刹那的な曲である。ライヴで披露する場合においても観客は、それまでの楽天的なノリとあまりにギャップがあるため、 誰もが固唾を飲んで釘付けとなってしまう有様だ。
曲が終わると同時に拍手喝采となる姿を何度見たかわからない。 そして、Kajaの秘められたLove&Soulは、いよいよ海外の人間をも魅了しだす。
皮切りは1990年、大阪で開催された半年間で2300万人を動員したという「花の博覧会」にて、 ラテンの祖国カリブ海を横にしたマヤ遺跡の国、ベリーズとの友好親善コンサートに出演。 その翌年はボヴ・マーレィを偲ぶ国際イベント「Bob Marley Colling」に。 さらにはロンドンでのライヴツアー、90年代後半にはニュージーランドでの「ジャパンフェスティバル」に日本代表として出演を果たしている。
現在、最も記憶に新しいのが2001年の春、スイスツアーを成功させたことだ。 ステージを共にしたダンサー、ローズラはKajaを「ワールドミュージシャン」と絶賛する。
「彼の音楽には人々を癒す力がある。
 歌詞が日本語であっても心には響いてくるもの。
 日本人はみんな彼みたいにピースフルなの?」と話は尽きない。
現地ではビデオに収録され、各新聞社も挙ってKajaの名を書き連ねた。 ある社はジミースコットと同扱いで、ある社は、 「彼の高い声はカリスマ的なハスキーテイストがあり、低いときは気持ちよく暖かくて…」と。
日本人Kajaには、世界の人々の心を和ませる力があるようだ。
そして大きな商業ベースに飼い慣らされることなく、国内外、また団体や個人を問わず、 ただひたすら誠実な声にだけ耳を傾けようとするKaja。 彼の歌はエゴや誇りを寄せ付けない、まさに魂の響きなのである。


WRITER : Kenji Kawamura
The style of Kaja


内面的な美と強さを放つKajaは、ライブミュージックをやるために生まれてきたといっても過言ではないだろう。 彼へ寄せられる熱い評価とポジティブなエネルギーが、ライブハウスで、クラブで、観客を魅了している。
繊細かつ温かで、カリスマ的なミュージシャンKajaは、日本のミュージックシーンにおいて異彩で独特な存在感を放っている。
ソロミュージシャンとして、心の深い部分を表現する一方、先駆的なレゲエグループ「Jammin'」では、リーダーであり、 作曲家として人間の喜びとポジティブなバイブレーションをダンスミュージックとして発散させている。
ロックやブルース、そしてレゲエに触発された彼の楽曲は、日本的な音感と様々な音楽のスタイルを彼独自のやり方でミックスしたものである。 歌のメッセージを伝えるために常に最良のジャンルを用いる彼の音楽は、過去20年のキャリアにおけるほとんどを毎日のライブの経緯から紡ぎ出されたエッセンスにあふれている。
「僕のサウンドは人間にすごく近い」とKajaは言う。
「人間は変化を好む。
 それは食べ物ひとつ取ってみてもわかるでしょう。
 誰だってお昼に毎日ポテトは食べない。
 様々な食べ物のコンビネーションがランチを楽しくしている。
 僕が僕の音楽の中で感じているのも同じことだ。
 コンサートは、まるで優美な食事を料理するような作業。
 調味料と食材の組み合わせのバランスをとりながら、
 世界でただひとつの夜を作り上げてゆく」
様々な音楽ジャンルの中を自由に飛び回りながらも、Kajaは常に彼の中の真実と、彼の心のメッセージを捉えようとする。 眠らない大都市日本の「コンクリートジャングル」の中、近代文明を映し出す彼の詩は、絶妙で驚くほど正直な彼自身の日々の生活観察からきている。
感情のラインに寄り添いながら、日本的な感性で美と回想、夢を紡ぎ出す瞬間を集めた彼の歌に、 あなたはうわべだけの冷たい都市の中にも、いつだってポジティブな光を見つけることが出来るだろう。 彼の音楽は、様々な社会の外圧からあなたの内面の美しさや平和を守る小さなヒントをくれる。
夢の強さ、彼の音楽の中で命を与えられる夢が、
彼の音楽を聴く人すべての人生の中に息づいてゆく。
日本でのツアーで彼の音楽を経験したMarcia Griffithsは言った。
「Kajaは国境を越え、文化を越えたところで、
 Bob Marleyの心を体現している」
1997年、ニュージランドのChristchurchのJapan Festivalにおいて、国外で初めてのKajaのコンサートは、観客の盛大な拍手のうち成功に終わった。

Writer:Rosula Blanc
Translated by:Tomoko Yamazaki
The style of Kaja


これまで"Big in Japan"だけのカジャは大阪のシンガーソングライターである。日本では20年間その名を成してきた。活動的な感じのいい日本人が西半球であまり知られていないのは、海外へ初めて出たのが4年前だったせいである。
彼の2回目の海外ツアーはスイス。ここでは"The Voice of Urban Japan"として宣伝された。このキャッチフレーズは好奇心をかきたてられた。驚くほどの文化に興味をもった人たちがパーテルに集まった。日本の大都市の生活感は音楽にどのように繁栄されているのか、先入見にとらわれていない人たちは楽しみにしていた。そしてじきに驚いたのである。私達の頭の中にあるイメージをカジャは元からぬぐいさった。
ハイテク機材を持たずアコースティックギターのみで、イスに座り楽しく、人を元気にさせる和音をかきならし、マイクに静かにハミングする。ソフト、優しくて、気持ちをこめた、そして力強く、エネルギッシュ。歌詞は日本語であったが、言葉バリアを、入りやすいメロディーと英語のリフレインで超えた。カジャの日本の伝統、ロック、カンタトレ音楽とレゲエのミックスが観客はどれだけ自分になじみやすいか知り驚いた。
そしてカジャは急に"スウィートレゲエミュージック"をバーゼルの4月の雨の夕べに送った時、観客はカジャと一緒に笑った。そしてすぐにわかったことは、カジャさんは音楽的に国際的な人であり、人みしりしない人だから、観客は2時間も観ていたのだろう。気持ちの上下にいつも驚かされた。
しかし、自分の音楽だけに魅力があったわけでなく、Doorsの"People are Strange"や伝統的な"すきやきソング"も彼のレパートリーに入っている。彼の高い声はカリスマ的なハスキーなテイストがあり、低いときは気持ちよくあたたかくて。彼は自分の強い性格をもっていることを示し、それで変身することもできる。その上、ダイナミックな力、音の強弱の効果をうまくあやつり、小さな舞台で1つの音楽を2つの楽器だけで長い時間をもたせた。またいつも新しいテンションをつくることは非常に難しいことであるのに、この日本人はこのことを非常にうまくできた。 2部のローズラという舞台ダンサーの統合の仕方もうまい。
彼の西洋の影響をうけた音楽と、彼女の日本の影響をうけた踊りの世界が溶け込んだ表情の強いパフォーマンスになった。この上、気持ちの強さと歌詞の内容が訳されたリーフレットが観客にくばられたことで、どれだけこの人がプロとして仕事しているのか、ということが明らかになった。


マルク・クレープス
BAZ(バーゼル新聞) 2001年4月12日
The style of Kaja


"Good Evening,I am Kaja"静かに、てれくさそうに頭を下げた感じに挨拶をする。あまりにもこちらのアジア人のイメージにあっている。彼は日本人で、アコースティックギターを持っている。きれいなエキゾチックな服ではなく、黒いジーンズとTシャツで十分。
音楽のジャンルの亀裂をカジャはつなぎあわせる
カジャの少ないアナウンスをbroken Englishですることに決めた。"My English is broken"と彼は言うが、本当は彼の音楽はそうである。彼は、本当にいろいろな音楽の亀裂をつなぎあわせると同時に元々日本的なことをアメリカや西洋文化とつなぎあわせている。この亀裂をカジャが自分の身体に表現する。これは彼の自分の声のかすれそうなところを隠されないでつかっているところだ。
カジャは自分の音楽を静かに段階的に生み出す。最初の長くてゆっくりな声でイントロダクションから英語の一行が表れてくる。この一行を繰り返し繰り返す。次ぎの歌詞は日本語。そしてもう一度英語の一行。歌詞は次ぎから次へと、その間のリフレインはたまに短く、たまに遊びを入れて、いろいろなパターンをとり入れている。その最初の歌はそれらがたくさんつかわれた歌だった。
日本語のイントロダクションから英語の言葉が表れて、Doorsの"People are strange"になっていく。次は、言葉無しのイントロから始まったところから、Marvin Gayeの"Mery Mery me"が表れたり、別のところにBob Marleyもいる。
ローズラ・ブランはカジャの2回目の海外ツアーを実現した。2部の始まりとアンコールに、カジャと一緒に即興のダイアログをする。舞踏スタイルで、彼女がゆっくりとした厳粛な動きをしたり、腕の動きを身体の回りに置いたりする。ぱったりと身体を舞台に投げたり、起き上がってくる瞬間にこの世でない、魂の世界にみちびく。それはカジャに対して具体的に存在する。最初は言葉のないハミングをし、ときにはカジャ語で喋ったりする。
カジャのようなミュージシャンは、音楽を後100年先に、宇宙にもっていくのだろう。伴奏にたくえつしていて、タイミングのセンスがとてもよく、時間と年齢をこえて"パーテルでのカジャ"のように。

ウルス・グレータル
bz (バーゼル・ランドシャフト新聞) 2001年4月14日